COLUMN

居合道の祖 林崎甚助源重信公

天文11(1542)年、現在の山形県村山市に生まれた林崎甚助源重信公。羽州最上家の家臣・浅野数馬を父とし、幼名は民治丸(たみじまる)といいました。
民治丸が6歳のとき、父の数馬は礼法指南の相役であった坂上主膳に暗殺されてしまいます。女丈夫であった母の菅野に育てられた民治丸は、8歳から剣術の修業に入るのですが、少しも上達するところがなく、これでは父の仇を討つことができないと母子は悲嘆に暮れました。その様子は見る側も痛々しいものであったといいます。
そこで菅野と民治丸は、林崎明神神社に剣術上達と仇討成就を祈願します。来る日も来る日も祈願と修業の勤行は続き、ついにある夜、林崎明神の神夢が現れます。そこで3尺3寸の刀と9寸5分の腰刀の操法を伝授されるのです。この神の教えは民治丸の剣術への黎明となり、翻然として自得。民治丸の剣術は絶妙の域に達しました。

民治丸は18歳で元服、その名を林崎甚助源重信と改めると、父の仇討を果たすために諸国を行脚します。そして、2年の歳月を辛苦したのちに仇敵・坂上主膳を家伝の名刀「信国」で討ち果たし、重信は晴れて楯岡に帰国しました。ところが、母・菅野はほどなく病死。天涯孤独の身となった重信は、ただ剣のみを友とし、終わりのない旅に出ます。重信は故郷を去るとき、

千早振(ちばやふる)
神の勲功(いさをし)我うけて
万代までも伝え残さむ

と詠んでいます。

その後については断片的な資料しか残っていません。23歳で常陸の鹿島へたどり着き、飯篠長威齋(いいざさちょういさい)の教えのもと4年にわたり天真神道流を研鑽。27歳、上杉謙信の家臣である松田尾張守の武術師範となり、蒲原出陣にも従軍したようです。この前後、常陸で塚原卜伝に師事し、卜伝流を授けられたという説があるほか、北条軍加勢説、加藤清正公からの招待説もあります。そして、田宮平兵衛業正(田宮流開祖)、関口氏心(関口流開祖)、片山久安(片山伯耆流開祖)などの門弟を育成。今日まで伝わっている居合道の流派のなかで、林崎甚助源重信公の道統でないものはひとつもありません。
しばらくは武蔵一宮氷川神社(大宮)の社地に住んだ重信ですが、48歳で諸国遍歴の途につきます。さらにその後、69歳となった重信は武蔵川越に住んでいた甥の高松勘兵衛を訪ね、翌年、奥州へ旅立ったと伝えられています。その後の消息は不明です。終焉の地についても、林崎、鹿島、奈良説があり、逝去の時期についても明らかではありません。

現在、重信公の英霊は「日本一社 林崎居合神社」に祀られています。そして、居合道の祖を配祀した唯一の神社として、さまざまな流派の修行者から信仰を集めています。